主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

年間第30主日C年(10/24) ルカ18:9〜14

  『「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ』の箇所です。

ファリサイ派は当時の宗教的指導者層、人々にも尊敬されていました。かたや徴税人は人々からは忌み嫌われ、「罪人」の筆頭格と見られていた人です。でもその徴税人の祈りの方が、「祈り」としてふさわしかった‥イエスさんのたとえは、たびたび皮肉が利いていますね。ファリサイ派の人の祈りを見て、さすがにこんな祈りはしないだろう‥と現代のわたしたちは思いがちですが、当時は結構そんな祈りがされていたんだそうです。「こんなにわたしが正しくてありがとう」みたいな‥。今のわたしたちはまずないだろうとも思いますが、でも考えてみれば「人の振り見て我が振り直せ」と言うように、「あんな人じゃなくてよかった‥」などと思ってしまうことは確かにあるのでしょう。まぁ、とにかく神さまはわたしのことはすべて御存知、その神さまの前で自分を誇ったって意味がないのは確かです。


話は変わりますが、先週はずっと教区司祭の黙想会でした。今年はなんと贅沢に、三人の講師に来て頂いて話を聞きました。東京の幸田司教、さいたまの谷司教、そして大阪の中川神父です。幸田司教さんがミサの説教で「希望とは何か」といった内容の話をされました。堅信の勉強会で、司教さんは高校生たちに「希望」について説明するのに「なんかこの先良さそうだぞ、ということ」と言われたんだそうです。そしてある研修会で東京の山谷にある「希望の家」という、カトリック信者の人がはじめた「死にゆく人を看取る」施設に行かれた時のことを話されました。色々な話があったのですが、そこで亡くなったある人は、死の直前に「あぁ、死ぬのが楽しみだ」と言ったんだそうです。その施設でカトリックの信仰に触れたその人は、死の先に何か明るいものを見た‥それこそが「希望」、すなわち「この先良さそうだ」ということだろう、と。その話を聞いて、これはすごいことだ、と思うと同時に、わたし自身も「希望」ということについて考えさせられました。


我々キリスト者はいつも希望を失うことがありません。どんな困難に遭遇しようとも、神に向かうことができるからでしょう。こんなにもわたしたちを愛して下さっている存在がおられることを知っているから、その方がきっと悪いようにはなさらないだろう‥と思えるからだと思います。ただ、時々自分の思いと神さまの思いの食い違いに遭遇すると、文句を言ってしまうのかもしれませんが。でも基本的には、全面的に神に信頼している‥その「思い」を持って神に向かうのが「祈り」なんだと思います。そして、「神の前にへりくだる」とはそういうこと‥すなわち神がどのようなお方であるかに心を向けることに他なりません。

その神の前に置かれた自分を見つめること‥聖書がわたしたちにメッセージしている本当の「へりくだり・謙遜」に、共に心を向けたいと思います。



ルカによる福音(ルカ18:9-14)

 そのとき、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下(みくだ)している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上(のぼ)った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通(かんつう)を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食(だんじき)し、全収入の十分の一を献(ささ)げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人(つみびと)のわたしを憐(あわ)れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


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