主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

四旬節第30主日A年(10/23)
マタイ22:34〜40

 「心を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい。これが最も重要な掟である」

人を愛するというのはわかりますが、神を愛するとはどういうことでしょうか。一生懸命祈ることなのか、神に常に賛美と感謝を捧げることなのか‥なんとなく「神を愛せ」と言われても、あまり具体的なイメージがわかないかもしれません。

「掟」と訳されたヘブライ語“ハガナ”は〈きざむ〉という意味だそうです。大切なことだから、心に刻むということなのでしょう。もともと掟と呼ばれる律法ができたのは、イスラエルの民が出エジプトという出来事を体験したゆえでした。エジプトで奴隷状態だった自分たちが神によって救われた‥こんなにも救われたのだから、わたしたちを救って下さった神を大切にしよう、そしてわたしたちも互いに救われたものどうしとして大切にし合おう‥それが成文化されたのが、律法のもととなった「モーセの十戒」でした。だからこそイエスは言われるわけです。最も重要なのは、“神と人とを大切に”、これに尽きるのだ、と。

聖書のメッセージの大きなポイントは、いつも神が先であるということです。よく誤解されますが、人間が一生懸命立派に生きて、正しいことをすれば、そのご褒美として神が救って下さる‥というのはまったく逆です。人間がそんなことを思いつくはるか前から、まず神がわたしたちを愛して救おうとして下さっている、その神のはたらきに気づく時、人は、こんなにも愛されているのだから自分も何かしよう‥と行動を起こすわけです。つまり、神のわざがまずあって、それが人の行いにつながっていく、と言えるでしょう。だとするならば、「神を愛する」とはまず神のわざに目を向け、そこにある神の愛に気づくことであるとも言えるのではないかと思います。

昨日、目黒教会で友人の結婚式があり、行って来ました。新婦が以前京都教区の青年センターの専従スタッフをやっていた女性で、全国の青年活動を通して長い付き合いとなっていた友人でした。そんな関係で、結婚式には全国から青年たちが集まっていました。それを見て、これはまさしく神のわざだなぁと実感しました。神のつなぐ人と人とのつながりは、無限に広がります。そしてそこには無限の力があります。人をいやし、支え、力づけ、そして導く力が。そんな神のわざに目を向けること、それこそが「神を愛する」ことであるのでしょう。

そう考えると、「人を愛する」のもまず〈愛されていることを見つめる〉ことから始まるのかもしれません。わたしたちは必ず誰かに愛されている。ここでいう「愛」とはアガペ、つまり行動ですから、言い換えるならわたしたちはいつも誰かに何かしてもらっている、それに気づく時、わたしたちもまた誰かに何かをしようという行動に促される‥それが「人を愛する」ことであるのかもしれません。ただ「自分のように」と言われると、どうかな‥とも思ってしまいます。わたしたちはどうしても自分を優先してしまう傾向がありますから。でも、確かにそれができる時もあるでしょう。たとえば、人から物をもらう時のうれしさより、誰かに何かを差し上げようとする時の喜びのほうがより深く大きいと感じることなど。昨日の結婚式で、新婦に何かプレゼントしようと思い、何がいいかな‥としばし考えました。でも一昨日まで黙想でしたので、金曜日にやばい、明日だ‥とあせり、何がいいかと考えたあげく、やはりわたしらしい物がいいかなと思って、包丁とまな板をプレゼントすることにしました。結婚式に刃物も何かな‥とも思ったのですが、まぁ、わたしらしい物ということで。どれがいいかな‥選んでいる時、本当に喜びとうれしさを感じました。まぁ人に何か差し上げるのは時には押し売りになってしまうこともありますが、人のために何かを準備している時の喜びの深さ、それはひとつ「人を自分のように愛する」ことのしるしなのかもしれません。

神と人を愛することの大切さ、そしてそれはまず神と人とに愛されていることに気づくことから始まることを、いつも思い起こしたいと思います。



マタイによる福音 

そのとき、ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟(おきて)が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22・34-40)


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