主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

四旬節第3主日A年(3/27)
ヨハネ4:5〜26

 「サマリアの女」というタイトルの、割に有名な箇所です。

ヨハネ福音書は一つひとつの話がとても長くて、今日の「聖書と典礼」では短縮版になっていますが、それでも長いですね。イエスがサマリアで宣教したということを語るのは、実はヨハネのこの箇所だけです。エルサレムを中心としたユダヤ地方とサマリア地方とは、歴史的経緯からイエスの時代は仲が悪く、そのことも影響しているのかもしれません。とにかく、そんなサマリア地方のある女性とイエスとが出会うことからこの話は始まります。

「正午ごろのことである」と福音書がわざわざ書くのには意味があります。パレスチナ地方は昼間暑いので、正午頃には誰も井戸に水をくみになんか来ないそうです。そんな時間に井戸に来る女性は、人目をはばかる存在だということです。後にイエスによって明らかにされますが、この女性は結婚と離婚を繰り返しているような人でした。イエスとこの女性との会話自体は、ヨハネの福音書が好んで使う言わば「噛み合わない会話」の形となっています。

イエスは井戸の水のことから「わたしが与えるのは生きた水であり、その水を飲む者は決して渇かず、それはその人のうちで泉となって流れ出る」と言われます。ようするに、神のわざ、神の働き、神の恵み‥あるいはみことば、と言ってもいいかもしれません。しかし女性は文字通りとって「渇かないなら、くみに来る必要がないようにその水をください」といいます。ヨハネではしばしばこうした噛み合わない会話を通して、イエスが大切なメッセージを提示するという形が使われています。ポイントは、自分が話している相手がメシアだということに気付いたこの女性がとった行動です。短縮版の方には載っていませんが、なんと人目を避けていたはずのこの女性、水がめをそこに置いたまま町に走っていって人々に言います。「さあ、来て下さい。わたしはすごい人と会った。たぶんメシアです」‥キリストとの出会いは、出会った人を宣教者にする‥その人が意識しているか否か、気付いているか否かに関係なく、です。イエス御自身が言われているように、まさにみことばがその女性の中で泉となって流れ出た。人目をはばかっていたこの女性を通して多くの人がイエスを信じた、と福音書は述べます。キリストと出会った人が媒体となり、さらに多くの人がキリストと出会う。「宣教」とは人間業ではなく、あくまでもその主体は神さまだということです。

わたしたちも同じでしょう。わたしたちはもうすでに何らかの形でキリストと出会っています。そのわたしたちを通して、さらに多くの人がキリストと出会ってゆく。また誰かを通して、わたしたちもまたさらに新たなキリストとの出会いに導かれる。よく洗礼を望んでいる人に「どうして洗礼を受けようと思ったのですか?」と聞くと、たいていは「教会のある方に出会ったことから」とか「ある方に影響を受けて」などといった答えが返ってくるのですが、その当の本人に聞いてみると、そんなこと気付いていないか忘れている場合が殆どです。やはり、宣教が基本的に神のわざであることのしるしでしょう。

今日の箇所の最後で面白いのは、サマリアの人たちがこの女性に「もうわたしたちはあんたが教えてくれるから信じたんじゃない。自分でこの人に触れたからだ」などと言ってるところです。何もわざわざそんなこと言わなくてもなぁ‥と思ってしまいますが‥。いずれにしても、わたしたちはキリストとの出会いによって「生きた水」が与えられ、それはわたしたちの中で泉となって他の誰かに流れていく。神が[わたし]を通して働かれている、わたしたちはそうした「神の宣教の道具」であるということです。そのことにいつも心を向け、神の道具としてふさわしい働きができますよう、共に祈りたいと思います。


ヨハネによる福音 ヨハネ4・5-26

そのとき、イエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。

 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物(たまもの)を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切(いっさい)のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


「ゆりがおか」トップページへ戻る