主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

聖霊降臨の主日B年説教(5/27)
ヨハネ15:26〜27,16:12〜15


 教会は、「聖霊降臨」という出来事をもって<教会のはじまり>と位置付けます。これはわたしたちにとって、結構重要なポイントです。<聖霊が降る>ことの描き方は聖書の書物によって様々ですが、今日の第一朗読でも読まれた使徒言行録は、結構派手ですね。でも、そこで何が起きたと伝えようとしているのかは、よくわかります。要するに、弟子たちが宣教をはじめた、ということです。そして宣教がはじまった時、<教会>が誕生した。逆に考えれば、「宣教しなければ、教会でありえない」ということでしょう。もちろん、たびたび申し上げているように、宣教自体は神さまのわざで、決してわたしたちが主体ではなく、わたしたちはその道具にすぎません。でも人を通して神さまのわざがはたらくのも事実です。これもたびたび申し上げていることですが、「教会」と訳されているもとのギリシャ語「エクレジア」は“呼ばれた者の集まり”という意味で、ようは呼ばれた目的が「宣教」であり、言い換えるなら<宣教の道具として呼ばれた者の集まり>が「教会」であると言えるのでしょう。

 横浜教区では、年に二回「司祭の集い」というのをやっています。教区内で働く司祭を対象としての研修なのですが、ちょうど先週の月〜火に、松本の近くであり、行って参りました。今年は横浜天主堂献堂150周年ということで、「日本の再宣教とパリ外国宣教会」という題で、その歴史に詳しい方を講師として招き、講話をうかがいました。いや〜、大変勉強になりました。鎖国以降の日本への宣教を「再宣教」と言うわけですが、1858年の横浜開港に先立つ1844年、もうすでにパリミッション会は日本再宣教に向けて、後に司教となるフォルカード師を那覇に派遣しました。残念ながらフォルカード師は本土に上陸できなかったのですが、1859年、ジラール師がやはり那覇経由で来日を果たします。これもすごいなぁ‥と思いました。今なら羽田から那覇まで飛行機でひとっ飛びですが、当時は那覇から横浜に来るのだって相当大変だったでしょう。しかも天主堂献堂が1862年、なんと来日して三年で教会を建ててるんですね。ありえない‥。このジラール師が後に司教となるプチジャン師を長崎へと派遣、プチジャン師はそこで「旧信徒発見」という歴史的事件に遭遇するわけです。そしてプチジャン師はその後横浜に戻って司教座を横浜に定め、後の横浜フタバを設立する幼きイエス会に、日本における女子教育のための来日を要請しました。わたしも長年横浜フタバにかかわっていますが、色々な人物がここでつながっていくんですね。1872年、幼きイエス会のマザー・マティルドが来日しますが、同じ年に横浜天主堂の主任司祭となったぺティエ師が、後に横浜フタバとなる紅蘭女学校創立にずいぶんと協力なさったそうです。そして1900年、紅蘭女学校が創立されますが、同じ年に天主堂は今の山手教会のある山手44番地にうつります。これも何かの縁でしょうか。いや〜すごい!わたしも多少の知識はありましたが、歴史の中で自分の知っていることとかかわってきたこととが、見事につながったような思いでした。まぁ歴史にあまり興味のない方にとっては「ふぅん‥」という感じかもしれませんが‥。ここに名前の挙げた方々はけっこう有名人ですが、これらの人たちがいたからこそ、今わたしたちがここにいるといっても過言ではないでしょう。ただこういう言い方をしてしまうと、えてしてわたしたちは「すごい人たちだったんだ‥」で済ませてしまいがちですが、そうではないですね。わたしたちの存在も同じで、今わたしたちがここにいることで、後の時代の人たちにも何かが起きる。「宣教」とはまさにそういうもので、それこそが神さまのはたらきです。そこには、神さまの御計画がいかに遠大であるかが示されていますし、それはそのままキリスト教の歴史でもあるし、もっと言えばそれよりもはるかに長い「救いの歴史」であるとも言えるでしょう。そんな神様の大きなはたらきの中に、わたしたちも置かれているわけです。

 聖霊降臨のお祝いの日に、そうした計り知れない神さまのわざとはたらきに、しばし心を向けたいと思います。


ルヨハネによる福音 15・26-27;16・12-15 

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証(あか)しをするのである。

 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」



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