主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   

年間第3主日C年(1/27)
ルカ1・1−4, 4・14−21


 

 今日の福音の中でイザヤ書の引用がなされていますが、最後の節の「主の恵みの年」とは、『聖書と典礼』の注書きにもあるようにレビ記25章にある「ヨベルの年」のことです。50年に一度、すべての奴隷が解放され、すべての負債は免除される‥すごい制度ですが、古代イスラエルでこれがどれほど実践されていたかは疑問視する学者もいます。ただ、ここには聖書における大きなポイントがあるのも確かで、それを見ていくには旧約で「安息」と訳されている言葉がキーワードとなります。よく葬儀の時に話すことですが、「安息」という言葉はその訳通り“体を休める・元気を回復する”という意味の他、元々は“もとの姿に戻る・本来いるべき場所に帰る”という意味があるのだそうです。たとえば「安息日」。日曜の前身となった規定ですが、これは一週間に一日仕事を休める日というより、一週間七日あるうち、せめて一日はわたしたちを創られた神さまを思い出す、礼拝する日にしよう、というのが元々の精神です。だから、一週間のうち六日は何であれ自分たちのために仕事をし、七日目は仕事をせずに神に祈る日にする、というわけです。レビ記25章には、さらに七年に一度の「安息年」という規定があり、この年は農業をしないで野に生じたものを食べるとされています。農業であっても自然のサイクルを壊すということを古代の人々はわかっていたのでしょう、だからせめて七年に一度は土地を「休ませる」、神さまが創られたもとの姿に戻そう、というのです。そしてさらに七年を七たび数えた翌年、つまり50年目に「大安息」と呼ばれる年がやってきます。これが別名「ヨベルの年」。「ヨベル」とは雄羊の角笛のことで、この年がやってくるとその角笛が吹き鳴らされたことからその名が付いたと言われています。この年はすべての奴隷が解放され、すべての負債はチャラ、売ってしまった先祖伝来の土地はすべて元に戻り、そして当然農業もしない。奴隷制や金の貸し借り、そして土地の売り買いなどはすべて、人間社会が生み出した歪み・ひずみであるから、せめて50年に一度はすべてを「チャラ」にして、神さまが創られたもとの人間の姿に戻ろう‥この「チャラ」の精神が実は重要なポイントなのです。神さまはいつでも「チャラ」にする方。たとえば「罪の贖い」という言葉は、まさに負債をチャラにする、奴隷の身代金を払って自由にすることを意味するのだそうです。洗礼を受けるとそれまでの罪がすべて赦される‥というのもやはりこの「チャラ」の精神です。わたしたち人間は、なかなか「チャラ」にできません。「なかったことにしましょう」とか言葉ではよく言いますが、そう簡単に「なかったこと」にはできない。自分が被害者の場合はなおさらです。でも神さまは違います。わたしたちが神さまに向き直る時、すべてはもとに戻る。それは神さまが一つひとつのいのちをどれほど愛されているか、ということの表現でもあるのでしょう。そしてイエスは、そんな神さまを示される方です。だからこそ、ルカはこのイエスの宣教活動開始の場面で、このイザヤ書の引用をわざわざ入れるわけです。

ちなみにカトリックでは、この「ヨベルの年」の精神を『聖年』として祝い、記念し、思い起こします。2000年の『大聖年』の時、教会が国際債務帳消しの活動をしたことを、憶えておられる方もいらっしゃるでしょう。

そんな神さまの大きな愛にいつもわたしたちが包まれていることを改めて思い起こし、わたしたちも少しでも「もとに戻る」ことができるよう、共に祈りたいと思います。


ルカによる福音 (ルカ 1・1−4, 4・14−21

わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

 (さて、)イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


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