主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


待降節第1主日(11/30)B(マルコ 13:33〜37)



昨日(11/29)、横浜の山下公園で「東日本大震災復興支援祭」が開かれ、客として行って来ました。あいにくのどしゃ降りで残念でしたが、その割に沢山の人が集まってました。実は会っておきたい人がいて行ったのですが、八木純子さんという宮城県の女川でずっと復興支援の活動をしておられる方で、Peace be witk YOU の活動ともずっとつながって下さっている方です。最近こちらに出てこられることが多いというので、今月頭にPeaceのメンバーでささやかな講演会を開いてお呼びしたんですが、わたしは別の用事があって行かれませんでした。で、昨日の復興支援祭にも出店なさるというので、Peaceのメンバー何人かと待ち合わせして行きました。ところが他のメンバーが遅れたので、待ちながら「ここらへんかな?」とそれらしいブースの前をうろうろしていたら、なぜか山手教会の御婦人方のグループがいて「あ、神父さんこっちこっち!」と呼ばれ、なんとその方々から八木さんを紹介されちゃいました。聞くと、全く別の活動で山手の方々は八木さんとつながっているんだそうです。もちろん八木さんはカトリック信者ではないんですが、あとでPeaceのメンバーと合流し、八木さんと一緒に話していたら八木さんにこう言われました。「教会ってすごいね!どっかで誰かがちゃんとつながってるんだね。」‥ちょっと「へへっ」と得意な気分になりました。教会だけではないですが、特に教会活動をしていると、「どっかで誰かがつながっている」体験というのはしょっちゅうありますよね。でもそれこそが神さまのわざだといつも強く感じます。

「目を覚ましていなさい」‥今日のこの言葉はよく待降節に読まれる個所のものでもあります。「目」は聖書では心の状態を表すシンボルで、例えば旧約などで「目を上げる」という表現がよく出てきますが、これは心をあらためて神さまに向け直すことを意味します。逆に「目を伏せる」というと、心にやましいことがあって神さまを直視できない状態だったり。そこからするなら、「目を覚ます」とはいつも心を研ぎ澄まして人のいたみ・苦しみに敏感であることでは‥とずっと思ってきましたが、他方で「神さまのわざに気づく」ことでもあるかな、と昨日の出来事を通して思いました。

「目を覚ましていなさい」‥実はわたしはこの言葉が子供の頃から嫌いで、なんか眠いのに「起きてろ!」と言われているような気がしてました。今日のマルコでも世の終わりについて言われているのでなんか警告のように読んでしまいますが、第二朗読のパウロの手紙などと併せて考えるならば、「救いの時が来るんだから、喜んでそれに目を向けなさい」というむしろ励ましの言葉であることに気づかされます。そして待降節第一主日にこの箇所が読まれるのも、まさにその意味からです。神さまはわたしたちをいつも救おうとなさっている、だからその神さまのわざがいつもわたしたちの内にはたらいていることに目を向け、それに気づきなさい、と。そしてその救いの喜びを分かち合うことこそが、待降節においてわたしたちに勧められていることなのだと思います。

クリスマスに向けて様々な準備をはじめながら、改めてそんなことを意識したいと思います。加えて、今年のクリスマスに3人の方が受洗を望まれ、これからその方々の洗礼志願式を行います。これこそ神さまのわざですね。共同体に新たなメンバーが加えられる大きな恵を、御一緒に分かち合いましょう。

(マルコによる福音 13・33-37)

(その時、イエスは、弟子たちに言われた。)「気を付けて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それはちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番に は目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなた方が眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」


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