主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第20主日B年(2015.8.16)

[(ヨハネ6:51〜58


8月16日年間第20主日、主任司祭がお留守のため、

百合丘共同体は「ミサのない主日の集会祭儀」を行いました。

以下は、その際の主任司祭からの「すすめのことば」です。


 ここ何週間か、ヨハネ福音書の6章が続けて読まれています。毎回説明していますが、ヨハネ6章は編集された当時すでに教会においてすっかり定着していた聖餐式、つまりミサを前提として編集されている部分です。なのでイエスの言葉として語られているところは、当時の教会の言わば信仰宣言と言ってもいいでしょう。さらにイエスの言葉につまづくユダヤ人たちの姿には、ヨハネ福音書が編集された当時の教会の状況が反映されている、とも言われます。ヨハネ福音書が編集された紀元90年代、できたばかりのキリストの教会は、その前身であるユダヤ教から激しく迫害され、それがピークに達していた時期でした。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終りの日に復活させる。」

何とも生々しい表現です。ユダヤ人にとって、「血」はいのちの源であり決して口にしてはならないものでした。旧約聖書の律法でもそれは厳しく規定されています。聖餐式においてパンとぶどう酒を[キリストの御体、御血]として分かち合うキリスト者をユダヤ教が激しく迫害したことの中に、そんな要因もあったのでしょう。ヨハネ福音書はそれを少々皮肉っぽい形で語ります。しかし、信じる者にとってキリストの食卓を囲むことは、この世を超えた救いにあずかることに他なりません。

「このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 ミサの中での祈りの一つひとつに目を向けると、それは実に様々な要素に満ち溢れていることに気づかされます。罪のゆるし、みことばに呼応して世界に目を向けること、信仰の宣言、キリスト者の交わり、平和の道具として生きることへの望み‥などなど。中でもわたしたちは頻繁にミサの中で亡くなられた方々の追悼をお祈りします。

葬儀の時などによく話すことですが、わたしたちが亡くなられた方のために祈る時、それは実は半分以上、「取次ぎの祈り」になっています。つまりは亡くなった方の神の御元での永遠の安らぎを願いつつ、でも神の御元にある方はある意味何の心配もないのだから、むしろこの世で苦しみ生きるわたしたちのために祈っていただきましょう、という願いです。一見都合のいい祈りにも思えますが、いのちがこの世を超えてつながっていること、神との結びつきにおいてそれが永遠のものであることの、わかりやすいしるしであるとも言えます。ミサの中でわたしたちはこの世を超えたつながりに目を向け、祈る。それはまさに「永遠の命を得る・永遠に生きる」ことを表しているのでしょう。

ミサという場、集まりは、神からの限りない恵みに満ちています。改めてその大き過ぎる恵みに心を向け感謝すると共に、今日、こうして集会祭儀を捧げる中で、同じように主日にミサを捧げることができない共同体のためにも、心を合わせて祈りたいと思います。


                                鈴木 真



(ヨハネによる福音 6:51-58)

(そのとき、イエスはユダヤ人に言われた。)

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」


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