主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


年間第4主日C年(2016.1.31)

[コリントの信徒への手紙 I・12:31-13:13  △ 13:4-13]



 

 皆さんに告白しなければならないことがあります。わたしは司祭になってから長年、勘違いしていたことがあって、最近そのことに気付きました。今日の第二朗読の箇所です。

 このJコリント13章は、『愛の讃歌』とも呼ばれる個所で、きれいな文章なので結婚式によく使われるところでもあります。わたしも今まで数えきれないくらい、結婚式でこの箇所を読み、説教してきました。特に20年ほど前、山手教会で2年間助任司祭として働きましたが、その頃は山手は結婚式で人気があり、信者でないカップルの式を多い時で週に6〜7組やってました。「オレ、いったい何のために司祭になったんだろう‥」なんて感じちゃいましたが、大抵は聖書朗読はこの箇所で、そのたびに「あー、この愛はですね、アガペ、つまり行う愛なのでこうなるわけです」とか何とか、わかったようなことを言ってました。言葉がきれいに並んでいるので何となく読んじゃいますし、聖歌にもされてきた箇所ですよね。でもよくよく読んでみると‥「愛は忍耐強い。情け深い。ねたまない。自慢せず、高ぶらない。‥すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」‥うーん‥そんな愛し方ムリ!できません。ごめんなさい‥などと思ってしまうわけです。

他方で終わりのところではわけわからないことになってきます。11「幼子だった時‥成人した今、幼子のことを棄てた」あれ?イエスさん、幼子のようになれって言ってなかったっけ?そもそも愛を語ってたんじゃないの?そして鏡のたとえ。昔の鏡は今のようにきれいに映らなかったので、ぽうっとしか見えない。「そのとき」とは終末を指すわけで、ますますわからなくなります。‥ので、結婚式で読む時はここを抜いて読んだりしてました。しかし最近、ようやく気づきました。

まず第一に4「忍耐強い」とは、旧約では神の特性を表す言葉です。まぁ人間がそのように表現したわけで、「人間に比べたら神はなんと忍耐深い方か‥」というわけです。旧約では、繰り返し神に背を向けてしまうイスラエルの民を、神はずっと待ってて下さる。すると‥これは神の愛のことを言ってるのか。事実、この箇所の「愛」の前に全部「神の」とつければすべて納得できます。「神の愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自分の利益を求めない‥」など。そう、まずは神の愛のことを言っていたんです!無論、それに合わせてわたしたちもこう愛すべきという要素はあるでしょうけど、まず、神はこのように愛する方なんだ、と。そして、聖書は前後関係がとても重要なんだということも、なぜか忘れてました。今日の箇所の前は先週読まれたところ、『一つの体、多くの部分』のところです。

もともとJコリントは、できたばかりなのに分裂状態だったコリントの教会に対する、パウロの戒めです。ごく一部の特別な能力を持った人たちが教会を仕切り、自分たちだけが特別であるかのようにふるまっていた。そんなコリントの教会に対しパウロは、すべての人が大切、いらない人なんかいない、体がそうであるように、様々な役割を持った人すべてで一つのキリストの共同体が作られている、と説きます。

しかしそれに続く今日の箇所では、「でも人間の能力なんか、神の愛に比べたらどれほどのものか」というわけです。だから「人間がどんなに素晴らしいことをしても、神の愛から離れたら何の意味もない」と説き、8「預言はすたれ、異言はやみ、知識は廃れよう。しかし神の愛は決して滅びない」とパウロは言うのです。そして幼子のところは、しょせんこの世のすべては幼子のように不完全なもの、世の終わりに神が来て下さったらそんなものすべて吹っ飛ぶんだよ!というわけです。

なんと!まさにパウロではないですけど「目からウロコ」でした。いつでも神が先に愛して下さっている、そのことに立ち帰らなければ、わたしたちは一番大切なことから離れてしまう。それで人間的にどんな素晴らしいことをしても意味がない‥ということなのでしょう。

今日の福音の箇所は、イエスの故郷ナザレの人たちがイエスにつまづいてしまう場面です。これも「わたしが」という視点で見てしまうがゆえでしょう。「オレはこいつをよく知ってる。だってヨセフの子だろう?何偉そうなこと言ってんだ」になっちゃうわけです。

そうではなく「神が」という視点に立って、神がその人を通して何をなさっているのかに目を向ける必要がある。神はいつでも人を通して働かれます。「神は?」に心を向けなければ、そのことをわたしたちはいとも簡単に見過ごしてしまうのでしょう。

いつでも神の大き過ぎる愛によって生かされていることに立ち帰ることができるよう、御一緒に祈りたいと思います。


                                鈴木 真



(コリントの信徒への手紙 I・12:31-13:13   △ 13:4-13)

 

 (皆さん、)

  ≪もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。≫

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。


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