主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


待降節第2主A年(2016.12.4)

[マタイ3:1〜12]





 

  毎年待降節の第2・第3主日には、洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれることになっています。先週から典礼の暦上は新しい年に入り、朗読年もA年になりました。A年はマタイ福音書が中心に読まれます。

今日の箇所ではこんな部分が目に留まりました。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ』」‥『聖書と典礼』の注書きにもありますが、何とも過激というか、すごいことを言ってるな‥と今更のように思いました。ファリサイ派とサドカイ派は、当時のユダヤ教の二大派閥です。お互いには仲が悪かったらしいですが、両方とも言わば正統派中の正統派、特にファリサイ派は律法を忠実に守ることが信条ですから、自分たちの行動にも相当自信を持っていました。

ところがヨハネは、そんなもの「へ」でもないぞ(下品な表現ですみません‥)、と警告するわけです。自分の血筋、家柄、そして業績など、そんなものは神の前では誇るに値しない、と。逆に言えば、そんなこととは関係なく神はすべての人をこよなく愛して下さっている、その愛に目を向けなければ何の意味もない、ということです。『悔い改めにふさわしい実を結べ』‥何度も言いますが、この「悔い改め」は誤訳としかわたしには思えません。もとのことばはメタノイア、「回心」という訳の方がまだいいでしょう。要するに神に心を向けること。どんなに自分たちが神に愛されているか、それに気づいた結果としての行動が求められている、と言えるでしょう。

わたしたちにも同じメッセージが向けられているかもしれません。毎年待降節になると、「待降節だから‥なんかいいことしとこうか」などと考えがちです。実際、カトリック学校では待降節にはどこでも一斉にボランティアや奉仕活動を始めます。でもそれも、背景に神の大きな愛がなければ、間違った方向に行ってしまうでしょう。神がイエスというお方を世に送って下さった、ひとり子をお与えになるほど世を愛して下さった。それほどの愛を頂いているのだから、せめてその愛を少しでも人々と分かち合いましょう、というものであるべきです。そして何より、待降節は喜びをもって主の降誕の記念の時を待つ時期、と言われます。

まず神の愛に目を向け、その大きな救いの恵みと喜びを分かち合う。その結果の行動なのだと思います。「今年も色々悪いことしちゃったから、罪滅ぼしに待降節にはちょいといいことしときましょう」じゃなく、所詮は罪人のわたしたちを神がどれほどの愛で包んで下さっておられるか、その恵みを?み締めながら、今年も待降節を過ごして参りたいと思います。

                                    鈴木 真

                               


(マタイ3:1〜12)

そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。

 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。

 『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」


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