主任司祭 鈴木 真 神父 主日の説教

 もくじ   


 復活節第三主日A年(4/30)

[ルカ24:13〜35]



 エマオに向かう弟子たちに復活のキリストが現れる‥この話はマルコの最後にちょっと触れられていますが、ここまで詳しく書くのはルカだけです。

そもそもこんな大変な時に、なんでこの二人の弟子は旅をしているのか?‥要するに逃げたんですね。「うちの先生十字架にかけられちゃうし、おまけに墓がからっぽだったとか言ってるし‥もうわけわかんない、逃げよう」って感じで。でもそんな二人に、イエスは寄り添って下さる。先週のヨハネの箇所もそうでしたが、弟子たちにとって復活という体験は、師を裏切ってしまった自分たちが赦されるという体験であったと同時に、〈こんな自分たちにイエスが寄り添っていて下さる〉という体験でもありました。だから、この後のところ、弟子たちが集まっている場に再びイエスが現れて言うわけです。「あなたがたはこれらのことの証人となる。(24:48)」「証人となれ」とは言われていません。今日の第一朗読の使徒言行録でも、ペトロが言います。「わたしたちは皆、そのことの証人です。」ここでも〈証人になれました〉とは言いません。弟子たちはあるがままの自分の存在自体が「証し」となっている、つまり〈こんなわたしたちを通して、神がはたらかれている〉ことを実感していたのです。やはり、「宣教」とは何よりも神が主体のわざ、わたしたちはその道具であることがよくわかります。

実は先日、ある友人と酒の席で言い合いになりました。その友人がこう言ったんですね。「最近教会は司牧ばかりしていて宣教してない。それじゃ『宣教司牧』になってない」そこでわたしは言い返しました。「いや、宣教は神さまのわざでしょ」すると「あんたら司祭がそんなこと言ってるからダメなんだ」と言われたので、「人間が宣教できると思っているところにおごりがある」と返し‥結局平行線で終わってしまいました。まぁ確かに教会にいれば居心地がいいから、教会の中にばっかりいる、とそれは足りない‥と感じることもあるかもしれませんが、わたしたちは週の大半は「社会」で生きています。働いていようといまいと、わたしたちが普段いる場は「社会」です。そのわたしたちを通して、神がはたらかれていると思うんですよね。

ちなみに、先週お話しした石垣のすみれ、昨日見たら枯れてました。(注:前の週に話したこと‥この季節にわたしはひそかな楽しみがあって、それは弘法の松公園側の石垣の間から咲くすみれの花。こんな小さいすみれが、石の間から力強く咲いている姿に神の大きなわざ、目に見えていること以上のものを感じる、と話した)いや、すごいですよね。毎年とても短い間だけ咲くすみれの花、また来年わたしたちの目を楽しませてくれるその自然の力強さに、やはり神のわざを感じます。わたしたちの身の回りの色々なところに、その神のわざのしるしが置かれてるんですね。

今年も復活節を過ごす中で、わたしたち一人ひとりを通してはたらいておられる神のわざにお互い気付いてゆけますよう、共に祈りたいと思います。

                                    鈴木 真

                               


ルカ(24:13〜35)

この日、(なわち週の初めの日、)二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


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