わたしたちは「呼ばれた」者
  ―主任司祭メッセージ 10/24―


 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

(イザヤ49・1b)

 実は、わたしたちが知っている神さまは「語られる」神さまです。最近のパパ フランシスコの教えによると、わたしたちひとりひとりに対して神さまからの三つの呼びかけがあります。まず、いのちへの呼びかけ、続いて信仰への呼びかけ、最後にひとりひとりの人生への呼びかけです。
 ヨハネの福音の書の始まりに、これについて次のように書かれています。

初めに言(ことば)があった。…
万物は言によって成った。
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
わたしたちはその栄光を見た。…

(ヨハネ1・1、3)

 母の胎にいる子どもと同じように、わたしたちは初めから神さまと語り合って生きています。わたしたちは神さまの造られた世界の中にいて、神さまの言葉を「聴いて」その言葉に「応える」存在です。子どもが母との対話から、自分も言葉を語ることを学ぶように…。
 聖書の世界も、神さまとわたしたち人間との対話で成り立っています。つまり聖書を読むことによって、子どもが母の前に生きているように、わたしたちは神さまの前に生きることを学びます。
 例を一つ上げさせていただきます。

主よ、あなたはわたしを極め わたしを知っておられる。
座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。…
あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。…
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
まだその一日も造られていないうちから…

(詩編139・1〜4、13、16〜17)

と詩編は語っています。

 わたしたちを考えさせるイエズスさまの言葉が一つあります。それは、

「…あなたがたがわたしを選んだのではない。
      わたしがあなたがたを選んだ。…」
(ヨハネ15・16)

と云うことばです。

 実はわたしたちの毎日は、自分で計画を立て、自分で決めて生活を送ろうとしています。場合によってそれが不可能になると、「仕方がない」で終わりになります。それと違って、イエズスさまが教えてくださった祈りは、

「天におられるわたしたちの父よ、…
       みこころが天に行われるとおり地にも行われますように…」
  とあります。

 またさらにイエズスさまは次のようにも言われます。

「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、
        その業を成し遂げることである。…」
(ヨハネ4・34)  と。

 まことの幸せはどこにあるのでしょう。マリアさまご自身がエリザベトから言われた言葉は、次のようです。

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、
  なんと幸いでしょう。」
(ルカ1・45)

 


 わたしたちを教会にしてくれる信仰は「従順」を要(かなめ)としています。これがマリアさまを「幸いな者」とする信仰です。神さまの御心に賛成する心、つまり「従順」です。この心はイエズスさまにもあります。

キリストは、神の身分でありながら、
神と等しい者であることに固執しようとは思わず、…
人間の姿で現われ、へりくだって…
十字架の死に至るまで従順でした。
(フィリビ2・6〜8)

 実は、この神さまの心を見分けるにあたって、わたしたちには「聞く耳がなければ…」なのですね。ことに日常の何かの欲望に心を奪われていたり、騒がしい中で生活していたりすると、なかなか聞こえてきませんね。
 絵画の“主のお告げ”を描く画家たちは、それぞれにどんな時にマリアさまがお告げを受けたのかを想像して描いていますが、その中にひざまずいて祈る姿を描いたものがあります。どんな姿であっても、きっとマリアさまは“神さまに耳を傾けて”生活されていたに違いありません。

 パパ フランシスコは「世界中における教会」のシノドスで、最も大切なわたしたちの態度は「耳を傾けること」と言われました。つまりわたしたちにとって「耳を傾ける」心はとても大事なことです。わたしたちみんなへの根本的な呼びかけは、ここにあるのではないでしょうか?
 初めからわたしたちに語りかけ、呼びかけてくださるいのちの主に調和して「応える」なら、きっとわたしたちにも豊かにいのちを与えてくださるに違いありません。 

 では、また来週!

 


カトリック百合ヶ丘教会主任司祭 マリオ・ビアンキン

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* 典礼用に、日本の司教団は「新共同訳」の聖書を使うように定めています。
ここに載せる聖書は、「新共同訳」の聖書です。